カテゴリー別アーカイブ: 書くにまつわる単語帳

書くにまつわる単語帳:「いたずら書き」

いたずら書き、これもまた、手書き特有の言葉です。
キーボードで、いたずら書きするという発想は、
少なくとも私にはありません。

■書いてはいけない所に書く
いたずら書きの一つ目の意味が、
「書いてはいけない所に文字、絵などを書くこと」ですが、
キーボードで打ち込む先には、”書いてはいけない所”がそもそもないのですから、
”いたずら”の成立しようがありません。
あるとしたら、他人のパソコンなどに勝手に書き込むといったことでしょうか。
(これが、いわゆるハッキングですね)

そう考えると、
手書きの強みは、どこにでも(いろいろな制約、制限はあるにしても)
書けることなんだなと気づきます。
書くところは、ノートやメモ帳に限られていません。
時には、手のひらにメモするなんてことは、
キーボードにはできない芸当なわけです。

■遊びの気持ちで書く
いたずら書きの二つ目の意味に、
「遊びの気持ちで文字、絵などを書くこと」とあります。
こちらは、キーボードでも全くないわけではないかもしれません。
しかし、手書きの”気ままさ”、
特に、絵とか図を交えながら、気が向くまま、書き連ねる感覚は、
キーボードではなかなか得られないものではないでしょうか。

また、万年筆の試し書きも、
一種のいたずら書きのといえるのかもしれません。
ペン先の感触を確認しながら、
好きな文字を書いたり、ぐるぐる線を書いたり、
これはもう、いたずら書きが可能な手書きの醍醐味です。

無意味な線を書いてみる、
また、その線が書くたびに、さっき書いた線とは違う、
そういった、無限の曖昧性があるからこそ、
いたずら書きが成立する、
なんだか、いたずら書きが崇高に思えてきました。


書くにまつわる単語帳:「書き入れる」

「書き入れる」は正にペンの世界。
独壇場といえるでしょう。

キーボードは、「書く」ことと「印刷」が切り離されているので、
ある紙面の特定の位置に記入するのは苦手です。

その点、ペンは直接紙に「書く」ので、
当然のように、特定の位置に、
それこそ、コンマ何ミリのところに書くことができるわけです。
しかも、好きな大きさで、記号をまじえたり、
色をところどころ変えてみたり、など、
自由に手軽に、「書き入れる」ことができるのは、
ペンならではといえるでしょう。

企画書や教科書への書き込み、校正といった
印刷物に「書き入れる」のは、依然、ペンの役割です。

当たり前と言えば当たり前の話ですが、
「書き入れる」という言葉から、
改めて、ペンの特質がよくわかる気がします。

そういえば、文具コンサルタントの土橋さんは、
校正専用に赤のインクを入れた万年筆を使ってらっしゃいます。
ペンは作業を楽しくしてくれる道具のようです。


書くにまつわる単語帳:「千字書き」

「千字書き」とは、
江戸時代の習慣で、手習いのために1日に千字書くことだそうです。
(冬至、毎月25日に行われたらしい)

千字というのは、原稿用紙2枚半なので、
とんでもない分量というわけではありません。
しかし、「千本ノック」と同じで、実際に何字書くかということより、
字、書を習得する上での「練習量」の大切さを象徴的に表現した言葉とも考えられます。

現在の教育では、このあたりのことはどうなっているんでしょう?
昔のことで忘れてしまいましたが、
漢字を覚えるためや書き順、とめはねなどのために練習した記憶はありますが、
「千字書き」のような、ともかく量が必要といった様子ではなかったように思います。

私が「千字書き」に感じるのは、字を自分のものにするという感覚です。
身につけ、さらにそこに個性を加えていく、その重要性を
この言葉と、冬至、毎月25日といった儀式化に込めていたのだと思います。

私の時代からさらに何十年か経った今、キーボードが隆盛を極める今、
教える側のモチベーションにおいて、字の大切さはどのように意識されているのでしょうか、
興味深いところです。

それにしても、「千字書き」が国語辞典から消えて、古語辞典に移る日も
そう遠くないような気がします。


書くにまつわる単語帳:「したためる」

「したためる」といえば、恐らく40代以上の方は、
井上陽水の「心もよう」を思い出すのではないでしょうか。

さみしさのつれづれに
手紙をしたためています あなたに

「したためる」とは、文章を書くことを意味する言葉のようですので、
メールでも「したためる」ことはできるかもしれません。
しかし、やはり、「手紙をしたためる」には、改まった雰囲気、
伝えたいことををカタチにするというニュアンスがあるように思えますし、
手書きと「したためる」は切っても切れないような関係のように感じます。

「心もよう」も次のようにつづきます。

黒インクがきれいでしょう
青いびんせんが悲しいでしょう

書かれた内容だけでなく、選んだインク、びんせんにも想いがある、
手紙全体が伝達手段であり、隅々に何かを感じ取れる・・

そして、それは文字そのものにも言えることです。
(いい悪いは別として)

あなたにとって見飽きた文字が
季節の中でうもれてしまう

井上陽水「心もよう」は「したためる」をとても的確に表現した
すごい詩だと改めて気づかされました。

■漢字で書くと「認める」
ところで、「したためる」を漢字で書くと「認める」となります。
これは、「みとめる」とは読んでも、「したためる」と読める人は
なかなかいないのではないでしょうか。
なぜ、「したためる」が「認める」なのか。

昔、殿様などの位が高い人は、係の者に口述筆記で手紙を書かせて、
それにサイン(花押)するだけだったので、
「したためる」に「認」の字を使うようになったと考えられているらしいのですが、
ということは、偉い人が書くことが「したためる」なのか?
どうも、すっきりはしません。

語源はともかくして、現代のニュアンスとしては、
「改まって書き伝える」という感じでいいんじゃないでしょうか。


書くにまつわる単語帳:「書き紛らわす」

「書き紛らわす」と聞いて、どんな意味かわかりますか?
なんとなく、書くことで気分を紛らわすことのように思えますが、
辞書を見てみると、全く違う意味の言葉のようです。
こんな風に書いてあります。

「筆跡をわからないように書く」(大辞林)

紛らわすのは気分ではなく、筆跡、
つまり、書き手が誰かをわからないようにする
ということのようです。
辞書の用例に、「源氏物語 夕顔」がありましたので、
ちょっと引用してみます。

そこはかとなく書きまぎらはしたるも、あてはかに故づきたれば、
いと思ひのほかにをかしうおぼえたまふ

現代文に訳すと、
身分がわからないように書いてあっても、高貴な趣が感じられ、
その意外性に好感を持った。
といった感じになるかと思います。

夕顔が扇に和歌を「書き紛らわ」したものを光源氏が受け取った時の印象を述べたものです。
「身分」、「和歌」、「書のたしなみ」など、
いろいろな文化を背景にして成立しているシチュエーションですが、
このような微妙な状況にぴったりくるような単語を編み出していた日本人の繊細さに感心します。
(他国の言語で、このような意味の単語が存在するのか興味があります)

現在は、手書き以外の手段が主流になり、筆跡が消えていく中、
絵文字やLINEなどのスタンプが駆使されるのは、
もしかしたら、筆跡にかわるその人らしさ、ニュアンスの表現なのかもしれません。


書くにまつわる単語帳:「書き損じる」

「書き損じる」という言葉があります。
私にとっては、原稿用紙や便箋をまるめて放り投げるところを想起する
とてもアナログなイメージの言葉です。

パソコンなどのデジタルには、誤字脱字、誤変換はあっても、
「書き損じる」にふさわしいシーンは思い当たりません。
デジタルの利便性は、「書き損じる」という言葉を不要にしてしまっているかのようです。

なぜ、書き損じが生じるかを考えると・・
ひとつには、大幅な削除、段落の入れ替えといった思考の経緯によるものがあります。
パソコンなら編集と称して、何事もなかったかのようにきれいに修正できますが、
原稿用紙とかだと、最初から書き直したくなるような事態です。
言うまでもなくデジタルは修正するのが簡単なことが大きなメリットで、
それは日頃大いに利用させてもらっているわけですが、
一方で、経緯が残らないという特性を持っています。
「書き損じる」ことは結果だけを見れば、失敗に見えますが、
経緯を見れば、思考がたどる必然だったといえることもあります。
(まあ、単純な書き間違いも多いでしょうが)

つまり、「書き損じる」ことは(よほどの天才でもない限り)、
人間の正しい行為と、無理矢理言ってしまうこともできそうです。