カテゴリー別アーカイブ: 書くということ

大人は万年筆を使うべきだ(と言い切ってみよう)

■万年筆はどこに行った

清書の機会が減った。
正確に言えば、清書はパソコンに置き換わったので、
手書きで清書する機会が減った。
せいぜい、宛名書き程度という人も多いと思います。

そして、万年筆は落書き用か、清書用かといえば、
清書用と捉えられているのではないでしょうか。
清書の機会が減れば、万年筆の必要性は、
ますます、感じられなくなります。

「万年筆は何がいいんですか?」と
質問を受ける事態となるわけです。

■万年筆は落書き用の筆記具だと考えてみる

清書用に登場機会がなければ、
落書き用と考えてみてはどうでしょう?
大人の落書き用筆記具です。

大人になると落書きをしなくなる、
必要なことを、必要な箇所にしか書かなくなる。
しかし、大人にも落書きは必要だと思います。

■大人の落書きとは?

大人の落書きって何でしょう。
簡単に言えば、「自由に書く」ということです。
自由とは、自由に考えることであり、
自由に書きたいところに書きたいように書く
ということです。
そして、この2つはたぶん密接に関係しているんじゃないと思うのです。

自由に考えたから、書きたいように書く、
書きたいように書けるから、自由に考える。
相互に関係し合って、「自由に書く」が成立している。

つまり、落書きと言っても、
ぐるぐると書いたり、試し書きのようなことをしようと
言っているのではありません。

考え事をする時とか、旅行の計画を立てるとか、
そんな時は、決まったスペースに、決まったフォント・線でかくパソコンよりも、
手で「自由に書く」環境の方が、
束縛なく、柔軟な発想に役立つんじゃないかと思うです。
大人は大人の落書き環境を失うなと言いたいのです。

■万年筆で自由に書く

では、なぜ、万年筆は落書き用にいいのか?
それは、万年筆は筆記具の中でも筆圧が最も軽くていいので、
楽に、つまり、負担なく書き進めることができる、
さらに、紙からのフィードバックが心地いいので、
書くこと自体が楽しい、というのがあります。

「自由に書く」の“自由に”を最も妨げることなく、
楽しめる筆記具のひとつが万年筆だと思っています。


ペンとキーボード:出力と入力

私たちは、今、ペンとキーボードを使い分ける時代に生きています。
(キーボードを使わない方ももちろんいらっしゃいますが)

ここでは、手書きのことを「ペン」、
パソコンや携帯・スマホで書くことを「キーボード」
と象徴的に呼ぶことにします。

昨今では、キーボードにペンが押されている印象ですが、
たかだか30年前にはペンしかなかったところに、
新しくキーボードが登場したので、
(日本にはタイプライターの文化がありませんし)
ペンの領域を浸食していくのは当然のことではあります。
それでもペンが息絶えるわけではなく、
キーボードを使う機会が増える程、かえって、
ペンならではの良さがはっきり見えてくる面もあります。

というわけで、ペンとキーボード、
それぞれのよさは何なのかについて、
今さらながら、考えてみようと思いました。

私が、ペンとキーボードについて感じるのは、
ペンは「出力」、キーボードは「入力」というです。

■キーボードは入力装置
キーボードは入力装置と言われます。
コンピュータに対してデータを入力するインターフェースです。
そして、私たちもキーボードでの作業を
「入力」ととらえていると思います。

「入力」である以上、入力するもの(文字、文章、音声など)が
あらかじめ用意されています(それが頭の中だとしても)。
目や耳から入っているものを入力するのにキーボードは強みを発揮します。

私はインタビューの仕事をする時に、
書記を専門の方にお願いすることがあるのですが、
そのたびに、そのスピードに驚かされます。
(ほぼ、会話と同時に文字になっていきます)
たぶん、速記に関しては、ペンよりもキーボードの方が早いのではないでしょうか。
もちろん人によって入力スピードは異なりますが、
キーボードの場合、速記のテーマによってよく出てくる言葉を
あらかじめ単語登録しておいて、
少ないキーストロークで入力するといった技を使える点でも、
ペンにはない強みを持っています。

そのほか、すでにある原稿を入力したり、
日常的なメールや投稿(書くべき事がすでに頭の中にあるような分量)を
書いたりするにはキーボードは向いているのでしょう。

■ペンは出力装置
一方、ペンは出力装置ではないかと私は思っています。
キーボードがコンピュータのインターフェースなら、
ペンは頭のインターフェースです。

言葉だけでなく、
映像、絵、図なども含めて、
頭の中にあるあらゆる情報、イメージを
紙などの平面に定着させる媒介役がペンです。

感覚としては、
頭の中の混沌から、言葉、線、図、色彩などのカタチを
紡ぎ出せるのがペンです。

重要なのは、
頭の中で、まだ整理しきれていない段階からでも
書きはじめ(出力しはじめ)、
書きながら、次のことが引き出される感覚です。
目の前に書いたものが、頭にフィードバックされ、
さらに考えが膨らんだり、整理されていく過程は、
ペンならではのものではないでしょうか。
「書いて考える」という言葉があるのがわかります。

ペンとキーボードは、アナログとデジタルという対比の中で、
ペンはアナログならではの情緒性=気持ちが伝わる、個性がある
といった良さで語られることが多いような気がしますが、
(そういった良さがあることも確かだとは思います)
ペンとキーボードの違いの根っこには、
今述べてきたような、出力と入力(役割の違い)が
あるのではないでしょうか。

ペン=手書きが今後も価値を持ち続けるのは、
「頭の出力」にこそあると思いますし、
そこに重点を置いた、商品開発やコミュニケーションが
もっとあってもいいのではないかと思っています。


書くにまつわる単語帳:「いたずら書き」

いたずら書き、これもまた、手書き特有の言葉です。
キーボードで、いたずら書きするという発想は、
少なくとも私にはありません。

■書いてはいけない所に書く
いたずら書きの一つ目の意味が、
「書いてはいけない所に文字、絵などを書くこと」ですが、
キーボードで打ち込む先には、”書いてはいけない所”がそもそもないのですから、
”いたずら”の成立しようがありません。
あるとしたら、他人のパソコンなどに勝手に書き込むといったことでしょうか。
(これが、いわゆるハッキングですね)

そう考えると、
手書きの強みは、どこにでも(いろいろな制約、制限はあるにしても)
書けることなんだなと気づきます。
書くところは、ノートやメモ帳に限られていません。
時には、手のひらにメモするなんてことは、
キーボードにはできない芸当なわけです。

■遊びの気持ちで書く
いたずら書きの二つ目の意味に、
「遊びの気持ちで文字、絵などを書くこと」とあります。
こちらは、キーボードでも全くないわけではないかもしれません。
しかし、手書きの”気ままさ”、
特に、絵とか図を交えながら、気が向くまま、書き連ねる感覚は、
キーボードではなかなか得られないものではないでしょうか。

また、万年筆の試し書きも、
一種のいたずら書きのといえるのかもしれません。
ペン先の感触を確認しながら、
好きな文字を書いたり、ぐるぐる線を書いたり、
これはもう、いたずら書きが可能な手書きの醍醐味です。

無意味な線を書いてみる、
また、その線が書くたびに、さっき書いた線とは違う、
そういった、無限の曖昧性があるからこそ、
いたずら書きが成立する、
なんだか、いたずら書きが崇高に思えてきました。


書くにまつわる単語帳:「書き入れる」

「書き入れる」は正にペンの世界。
独壇場といえるでしょう。

キーボードは、「書く」ことと「印刷」が切り離されているので、
ある紙面の特定の位置に記入するのは苦手です。

その点、ペンは直接紙に「書く」ので、
当然のように、特定の位置に、
それこそ、コンマ何ミリのところに書くことができるわけです。
しかも、好きな大きさで、記号をまじえたり、
色をところどころ変えてみたり、など、
自由に手軽に、「書き入れる」ことができるのは、
ペンならではといえるでしょう。

企画書や教科書への書き込み、校正といった
印刷物に「書き入れる」のは、依然、ペンの役割です。

当たり前と言えば当たり前の話ですが、
「書き入れる」という言葉から、
改めて、ペンの特質がよくわかる気がします。

そういえば、文具コンサルタントの土橋さんは、
校正専用に赤のインクを入れた万年筆を使ってらっしゃいます。
ペンは作業を楽しくしてくれる道具のようです。


大人が鉛筆を使うために薦めたいこと(1)2B以上を使おう

鉛筆

前回説明した鉛筆離れの原因の最初に、
鉛筆は、シャープペンシルに移行して卒業してしまいがちな筆記具だと書きました。

これを解決するためには、
鉛筆に対する認識を新たにする必要があるのかもしれません。

そこで、2B以上の硬度の鉛筆を使ってみることをお薦めしたいと思います。
2B以上の鉛筆を使って、
「ああ、鉛筆って、シャープペンシルとは違ったよさがあるんだな」
と感じると、鉛筆を見る目が変わってきます。

●HBで育った人は、鉛筆に対する先入観がある(?)
今では、小学校でもBなどの、HBより柔らかい鉛筆を指定する学校が多いらしいですが、
私の頃はHBでした。
鉛筆といえばHBが当たり前でした。
今でもコンビニで売っている鉛筆はHBなので、
やっぱりHBが標準的な硬度だと思われているのでしょう。

HBって今使ってみると、硬くて、薄いなあと私は感じます。
これだから、鉛筆はぐいぐい紙に押しつけて書いていたんだなと思い出します。

多くの人が、このイメージを持っているのではないでしょうか。
強く書かなければ、黒々とは書けない、
強く書くと、紙が裏にへこんでしまう。
鉛筆って力がいる筆記具だと、下敷きが必要だと・・。

●2B以上の鉛筆を使ってみよう
そこで、お薦めしたいのが、
2B以上の鉛筆を使ってみることです。

「なーんだ。鉛筆って、さらさら書けるものなんだ」
と、鉛筆への認識を新たにできます(きっと)。

ボールペンは、その構造上、ある程度力をかけることが必要なので、
「さらさら書ける筆記具」というのは、
意外と鉛筆の強みです。

もちろん、すべてのシーンを鉛筆でまかなおうというのではありません。
そこは、小学生とは違います。
シーンに応じて使い分けできるのが大人です。

当然、ボールペンが適したシーンも多いでしょうが、
ちょっとしたメモ、
文章を書いたり、絵を描いたりして考え事をするなど、
さらさらと書ける鉛筆が適したシーンもたくさんあります。

2Bを使ってみる、そして、鉛筆への認識を改める。
鉛筆がさらさら書ける筆記具だとわかると、
鉛筆で書きたい気持ちがわいてきますよ。


大人が鉛筆を使うために薦めたいこと はじめに

鉛筆

鉛筆のよさは、私が繰り返すまでもないことですが、
一方で、鉛筆から遠ざかっている人、
使わないこともないけれどいまひとつ積極的に活用していない人も
沢山いらしゃると思います。

そこで、私なりの鉛筆のススメを書いてみたいと思います。
(商品の紹介は、手前味噌、宣伝的になることをご了承下さい)

タイトルのように、「大人が鉛筆を使うため」と大人に限定したのには、
私が鉛筆を再認識した体験に基づく提案だからです。
「大人が鉛筆を使うため」は「大人のための鉛筆再入門」
と言い換えてもいいかもしれません。

私の体験がどれほど普遍的かはわかりませんが、
きっと大人になって鉛筆を使っていない人のうちの何割かにとって
参考になるのではないかと思っています。

では、はじめに、大人になると鉛筆を使う人が減るのはなぜかを私なりに考えてみました。

●鉛筆離れはなぜ起こるのか
日本人の全員が小学校で鉛筆を使います。鉛筆を使ったことがない人は皆無です。
なのに、大人になっても鉛筆を使い続けている人はぐっと少なくなります。
少なくとも、会議・打合せで鉛筆を使っている人を見かけることは本当に少ないです。
なぜでしょうか?
もちろん、人それぞれ、いろいろな理由があるかと思いますが、
私は次の3つをあげたいと思います。

 1)シャープペンシルへの移行(鉛筆を卒業)
 2)機動力の低さ
 3)大人の手に心許ない

●シャープペンシルへの移行
私が学生時代までは、シャープペンシルはまだ確実な市民権を得ておらず、
鉛筆に比べて便利な点はあるものの、折れやすく、薄くしか書けない、
ちょっと半端な存在でした。

それが、今では、シャープペンシルは鉛筆よりもむしろ上位にあるような印象を受けるほど
当たり前の存在になっています。
多くの人が、シャープペンシルは鉛筆の進化形だと思っているのではないでしょうか。
削らなくていい(=鉛筆削りがいらない)、折れてもノックすればいい、
だから何本も用意する必要がない、ずっと同じ細さを保っているなど、
鉛筆の不便を解消したいいことずくめの筆記具に思えるので、
小学校の「鉛筆しか使っちゃいけない」制約から解放されると、
みんなこぞってシャープペンシルに移っていくというわけです。

これが、鉛筆離れの最も大きな要因ではあることは疑いのないことかと思われます。
(しかし、別の機会に書きたいと思いますが、シャープペンシルは鉛筆の進化形のように見えて、実は結構別物の筆記具です。共通点は芯を使っているぐらいのものです)

●機動力が低い
鉛筆はシンプルです。
それは非常に潔く、書く機能以外なにも持ち合わせていません。
そのため、ほかの手助けを必要とします。

削るために鉛筆削り器、持ち運ぶために筆箱(または、キャップ)。
特に、筆箱は鉛筆の大切は仲間です。
鉛筆は長いので、普通のペンケースで鉛筆が入る長さのものはなかなかありません。
しかも、じゃらじゃら入れたのでは芯が簡単に折れて、ペンケースの中が汚れてしまいます。

小学校時代に慣れ親しむあの筆箱は、鉛筆に最適化された、鉛筆専用のペンケースであり、
あれのおかげで、鉛筆をランドセルに入れて持ち運ぶことができるのです。

ところが、小学校を卒業すると、
(もっと前かもしれません。また、それは鉛筆を卒業するのと連動してなのでしょう)
筆箱からも卒業することが多いのではないでしょうか。
大事な仲間を失った鉛筆は、とたんに機動力をなくします。

大人になって鉛筆っていいかもと思っても、筆箱もいいかもとはきっと思いません。
大人には大人の機動力が必要なのに、意外とそれがありません。
(ファーバーカステルのパーフェクトペンシルは、機動力に対するひとつの回答だと言えるでしょう。
パーフェクトとは、シンプルな鉛筆に仲間を加え、筆記具としての独立性を確保することだと考えられます)

調査をしてみると、実は鉛筆を使っている人は、それほど少なくないことがわかります。
(鉛筆最近3ヶ月使用率:60.5% 男女20〜69歳1000サンプル、2012年2月調査。
ちなみにシャープペンシルの3ヶ月使用率は80.1%)
しかし、その割には、ひとが使っているところを見かけることが少ないような
気がしてなりません。なぜか。
恐らく、鉛筆が機動力を失って、引きこもり筆記具になってしまっているからではないか
と想像します。

大人が鉛筆を使うためには(日常的にどこでも使えるようにするためには)、
大人のための機動力が必要なのです。

●大人の手に心許ない
大人になって久しぶりに鉛筆を手にした時の私の感想は、
「細い、軽い、どうやって持つのがバランスがいいのかつかみにくい」というものでした。

ずっと使い慣れている人にとっては、そんなことはないのかもしれません。
鉛筆には鉛筆の持ち方、バランスがあって、特に持ちにくい筆記具とは
感じていないのでしょう。
しかし、普段、万年筆を使うことが多い私が突然鉛筆を持ってみた時は、
非常に心許ない気持ちになってしまいました。

賛否両論あるかとは思いますが、必ずしも大人の手にしっくりくるとは言い切れない点も、
鉛筆から遠ざかる原因のひとつになっているのではないかと思っています。

これ以外にも鉛筆が根本的に持っている問題点もありますが、
(筆記面をこすると擦れるなど)
少なくとも、以上の3点は、解決策がある鉛筆離れの理由だと指摘しておきたいのです。

では、続きはまた。


書くにまつわる単語帳:「千字書き」

「千字書き」とは、
江戸時代の習慣で、手習いのために1日に千字書くことだそうです。
(冬至、毎月25日に行われたらしい)

千字というのは、原稿用紙2枚半なので、
とんでもない分量というわけではありません。
しかし、「千本ノック」と同じで、実際に何字書くかということより、
字、書を習得する上での「練習量」の大切さを象徴的に表現した言葉とも考えられます。

現在の教育では、このあたりのことはどうなっているんでしょう?
昔のことで忘れてしまいましたが、
漢字を覚えるためや書き順、とめはねなどのために練習した記憶はありますが、
「千字書き」のような、ともかく量が必要といった様子ではなかったように思います。

私が「千字書き」に感じるのは、字を自分のものにするという感覚です。
身につけ、さらにそこに個性を加えていく、その重要性を
この言葉と、冬至、毎月25日といった儀式化に込めていたのだと思います。

私の時代からさらに何十年か経った今、キーボードが隆盛を極める今、
教える側のモチベーションにおいて、字の大切さはどのように意識されているのでしょうか、
興味深いところです。

それにしても、「千字書き」が国語辞典から消えて、古語辞典に移る日も
そう遠くないような気がします。


手書きは考え事を効率化する

すべてが手書きだった頃は、手書きの意味とか、手書きのよさなんて考えることはありませんでした。
選択の余地がない時には、疑問を感じることはありません。

私の場合は、会社に入って数年間は手書きでした。
その後、ワープロの期間が少しあり、Macが登場し、Windows95、インターネットによって、一気にキーボードの時代になったわけです。
(ここでは、パソコン、ケータイ・スマホによる文字入力のことを象徴的に「キーボート」と呼ぶことにします)

キーボード全盛の今、「手書きとは何か?」、この答は人それぞれかと思いますが、私の場合はどうなのかと少し考えてみました。

●手書きは考え事を効率化する
私は仕事上、毎日、企画書や調査報告書を書いていますが、それには大きく分けて2つのステップがあります。

例えば、調査報告書を書く時は、いきなりグラフを見てコメントを書くということはなく、その前に、まず第1ステップとして、今回の調査の結果は、“課題や仮説に対して、どんな意味を持つのか”、“この結果はつまり世の中でどんなことが起きていることを示しているのか”、そんなことをあれこれと頭の中で発酵させ、それを紙にはき出すことをします。
第1ステップで全体を概観し、向かうべき方向性を掴んでから、次の実際のコメントを書くという第2ステップに進みます。
第2ステップは当然ながらキーボードですが、第1ステップは、私の場合、ペンと紙がやっぱりいいのです。

よく、書きながら考える、手で考えると言ったりしますが、確かに、手で書くと、頭の中のものがはき出しやすい感覚があるのと、書いている最中にも頭の中がむずむずとまた考えはじめるという感覚があるように思います。

また、頭の中にあるものは、文字だけでなく、チャートや矢印など、映像的なものもあるので、それをはき出すには、まずはペンで自由に書いてみるのが一番のように思います。

実はこのような作業は、キーボードが登場する前からずっとやってきたことではあるわけですが、
キーボードで納品物を作成する第2ステップと、その前の自分の考えをめぐらす第1ステップが分離され、手書きで考え事をすることが、私の中で明確に意識され、純化されてきたのではないかと感じています。

手書きには情緒的な価値(気持ちが伝わるなど)ももちろんあると思いますが、
私にとっては、考え事を効率化する実際的、機能的な価値が大事だと思っています。

●手書きという武器を手に入れないのはもったいない
最初からキーボードに慣れ親しんできた世代の方は、もしかしたら、書きながら考えるという作業を体験していないのかもしれません。
もし、そうだとしたら、せっかくの武器(しかも、簡単に手に入る武器)を手に入れていないのですから、もったいないというべきかもしれません。
是非、自分の頭の中を紙に直結させる手書きという手段、武器を試してみて欲しいと思っています。

さらに、考え事をするのに適した筆記具の話もありますが、それはまた、機会を改めることにします。


書くにまつわる単語帳:「したためる」

「したためる」といえば、恐らく40代以上の方は、
井上陽水の「心もよう」を思い出すのではないでしょうか。

さみしさのつれづれに
手紙をしたためています あなたに

「したためる」とは、文章を書くことを意味する言葉のようですので、
メールでも「したためる」ことはできるかもしれません。
しかし、やはり、「手紙をしたためる」には、改まった雰囲気、
伝えたいことををカタチにするというニュアンスがあるように思えますし、
手書きと「したためる」は切っても切れないような関係のように感じます。

「心もよう」も次のようにつづきます。

黒インクがきれいでしょう
青いびんせんが悲しいでしょう

書かれた内容だけでなく、選んだインク、びんせんにも想いがある、
手紙全体が伝達手段であり、隅々に何かを感じ取れる・・

そして、それは文字そのものにも言えることです。
(いい悪いは別として)

あなたにとって見飽きた文字が
季節の中でうもれてしまう

井上陽水「心もよう」は「したためる」をとても的確に表現した
すごい詩だと改めて気づかされました。

■漢字で書くと「認める」
ところで、「したためる」を漢字で書くと「認める」となります。
これは、「みとめる」とは読んでも、「したためる」と読める人は
なかなかいないのではないでしょうか。
なぜ、「したためる」が「認める」なのか。

昔、殿様などの位が高い人は、係の者に口述筆記で手紙を書かせて、
それにサイン(花押)するだけだったので、
「したためる」に「認」の字を使うようになったと考えられているらしいのですが、
ということは、偉い人が書くことが「したためる」なのか?
どうも、すっきりはしません。

語源はともかくして、現代のニュアンスとしては、
「改まって書き伝える」という感じでいいんじゃないでしょうか。


書くにまつわる単語帳:「書き紛らわす」

「書き紛らわす」と聞いて、どんな意味かわかりますか?
なんとなく、書くことで気分を紛らわすことのように思えますが、
辞書を見てみると、全く違う意味の言葉のようです。
こんな風に書いてあります。

「筆跡をわからないように書く」(大辞林)

紛らわすのは気分ではなく、筆跡、
つまり、書き手が誰かをわからないようにする
ということのようです。
辞書の用例に、「源氏物語 夕顔」がありましたので、
ちょっと引用してみます。

そこはかとなく書きまぎらはしたるも、あてはかに故づきたれば、
いと思ひのほかにをかしうおぼえたまふ

現代文に訳すと、
身分がわからないように書いてあっても、高貴な趣が感じられ、
その意外性に好感を持った。
といった感じになるかと思います。

夕顔が扇に和歌を「書き紛らわ」したものを光源氏が受け取った時の印象を述べたものです。
「身分」、「和歌」、「書のたしなみ」など、
いろいろな文化を背景にして成立しているシチュエーションですが、
このような微妙な状況にぴったりくるような単語を編み出していた日本人の繊細さに感心します。
(他国の言語で、このような意味の単語が存在するのか興味があります)

現在は、手書き以外の手段が主流になり、筆跡が消えていく中、
絵文字やLINEなどのスタンプが駆使されるのは、
もしかしたら、筆跡にかわるその人らしさ、ニュアンスの表現なのかもしれません。